横浜市青葉区にある四季の彩りにあふれた場所【祥泉院】

境内案内

以下に紹介する他にも当院には昭和28年に埼玉県の妙安寺から分霊安置された馬頭観音や、天文8年造で長さ3尺あまりの寒念仏碑などがあります。

本堂

s_DSC00881本堂は、平成20年5月より4年の歳月をかけ平成23年11月完成落慶しました。

間口11間半(22m)、奥行き10間(18m)、欅の丸柱50本直径33〜45cm、檜の角柱30本27cm角として、屋根瓦は奈良県天理で製作の国内最大級の四尺鴟尾、特注蓮華紋瓦8,000枚が使用されています。耐震対策として、通常の1.5倍壁面。内陣は35世祥雲圓徳大和尚の遺作鎌倉彫合天井。

正面の蛙股の彫刻も鶴見川の水辺の鳥達5種類、亀、蛙、沢蟹、鯉、鯰。白虎、玄武、青龍、鳳凰、室内は青海波、水龍、唐獅子、波兎、日の出波彫刻など。ごゆっくり拝観ください。

関東霊場西国三十三体の観音様

祥泉院の西国三十三体の観音様には、250年の歴史の重みがあります。もともとこの観音様は秋光寺という寺にあったものです。

今から350年ほど前の明歴年間(1655年-1658年)、武州都築郡中里村の中鉄(現在の横浜市青葉区鉄町)に、祥泉院の末寺としてこの寺は建立されました。その90年後、一人の六十六部が秋光寺を訪れます。周防の国の者で惣左衛門というこの六十六部が、当時の村田の主人五代目藤右衛門に勧めて自ら願主となり、延享3年11月(1746年)に西国三十三体の観音様と観音堂を建立して秋光寺を再興したのです。

その後秋光寺は浄光庵として改号し、観音様も明治39年に大修理されました。戦後、観音堂は荒れ果ててしまい、昭和28年4月3日に本寺祥泉院に入仏し、現在に至っています。

山門

山門は、昭和40年に東京都渋谷区の長泉寺から移築され、平成元年に大改修されたものです。

鐘楼は戦時中の供出で無くなっていましたが、昭和50年に再建されました。鐘は毎日朝6時、夕は秋冬5時、春夏6時に打ちます。

また除夜の鐘や正月には地域の鐘として開放され、一般参詣のみなさんも打つことができます。

都筑の丘野万葉歌碑

歌略解

奈良時代701年に公布された、大宝律令によると、我が国の男子で、20歳以上60歳までの者は徴兵されることになっていた。これを正丁と呼んだ。身体障害者はその他に対して、これを免除する規定があった。正丁は通算してその三分の一が兵士として召されて近くにある軍団に所属させられた。上番の時は、軍団に入って武事の訓練を受け、城塞・関所の守備、犯罪人の逮捕にも当たった。下番の時は郷里で家業を営んだ。兵士は一人当たり干飯六斗、塩二升を携帯食糧として官へ納めねばならなかった。また、弓矢太刀等の武器も自弁しなければならなかった。征士になると、京都に一年間勤務しなければならない。また、防人として、辺境に派遣されれば三ヶ年服役するのである。

軍団は隣接する数郡を合わせて一軍とする制度であったから、都筑郡から召された兵士は、多摩軍団に入ったのであろうと考えられている。

防人とは崎守で辺要の地を守備する兵士のことである。古くから国内肝要の地に配置されていたが、この制度が整備されたのは、大宝律令からであるといわれている。

国々では名法が作られ、順番に当たった者を武領使が引卆して難波に行き、兵部省の役人に引き渡した。兵部省では防人の住所を決める。九州に行く者は難波から乗船し、防人司に渡された。防人の任所における部署勤務などは、すべて防人司の指揮によるのであって、防人は十日間に一日の休暇が与えられ、三ヶ月でその配置が交替させられた。

防人は遠江以東関東までの諸国で約三千人を出していた。その三分の一は毎年二月一日に交替することになっていた。

天平二年 ( 730年 ) に諸国に置いた防人を停止して、九州だけに置くことに改め、同九年には九州の防人も廃止したのであるが、後に、復活して、天平宝字元年 ( 757年 ) には東国の兵士が九州に差遣されている。その頃、西海道の兵士も防人に徴されていたが、その成績は東国兵に及ぶべくもなかったようで、太宰府は、東国の防人を要請してきている。

とりが鳴く  あづまをのこは  出で向ひ顧みせずて
勇みたる猛き軍兵と労き給ひ 大伴家持の歌

延暦になると、東北蝦夷征伐を行う為に、同十四年に東北兵士は壱岐・対島の二島だけに派遣することを定めた。その後は防人を置いたり廃止したりの変遷はあったが、寛平六年 ( 894年 ) 以後はどうなったか明らかでない。

東国とは、どの国々を指すかというと、一般には、関東地方を指すものと考えられているが、、逢坂以東を東国と呼んだこともあれば、碓井坂以東の国々を「あづま」としたこともある。万葉集の東歌では、遠江、駿河、伊豆、信濃、相模、武蔵、下総、上総、常陸、上野、下野から陸奥までが東国に入っている。

防人の歌は、万葉集に収録されているが、万葉集は、承知の通り我が国最古の和歌集であり、仁徳天皇の朝から淳仁天皇の朝まで、およそ、三百五十年間の和歌を集めたもので、巻数は二十、歌は四千五百余首、それが万葉仮名と呼ばれる一種の仮名で書かれている。

作歌者は、歌聖と称せられる柿本人麻呂、山部赤人から、一般庶民にまで及んでいる。なかでも、奈良朝時代の人が一番多い。万葉集にある防人の歌は、全部で九十九首、そのうち九十三首が、巻二十にあり、他のものは、巻十三に一首、巻十四に五首あって、そのうち長歌は一首だけで、他は皆短歌である。

防人たちの詠んだ歌は、彼等を難波に送って行った部領使が集めて、兵部省に報告したものであるが、天平勝宝七年 ( 755年 ) 二月に交替した防人の歌は時の兵部少輔大伴家持が官命によって、難波で撰抜し、八十四首あり、これが防人の歌の主体となっている。その中には上総国の防人の父が詠んだものが一首、武蔵国の分で防人の妻が詠んだものが六首入っている。

ここの碑に刻まれている二首の歌は、都筑郡の上丁、服部於田夫妻が詠んだものである。この夫婦は都筑郡のどこに棲んでいたか、どんな経歴があるのか解っていない。

於田は、天平勝宝七年二月に交替した都筑の上丁 ( 二十才以上の壮丁 ) で、荏原郡の上丁物部広足、同郡主張物部歳徳、橘樹郡の上丁物部真根、埼玉郡の上丁藤原部等母麻呂、秩父郡の助丁大伴部小歳等と共に筑紫へ赴いたようである。

服部とは、古へ機織を?としたものであるから、当時、朝廷で機織の事を掌どった服部連の支配に属した部民であったと思われる。

学者たちは、この防人の歌に、都筑郡の名が見えてるのを指して地名「都筑」がものに見えている最古のものだといっている。

服部於田夫妻の名の読み方

於田 うえだ ( 万葉集全釈 ) おゆ ( 神奈川県大観 )
呰女 ちさめ ( 万葉集全釈 ) あだめ ( 神奈川県大観 )

<万葉集  巻の第二十 >

わが行の息衝くしかば  足柄の
峰延ほ雲を  見とと偲はね 服部の

注釈:わたしの行くことが、嘆息されるようなら、足柄山の峰に横たわる雲を 見つつ思いなさい

わが夫なを  筑紫へ遣りて  愛しみ
帯は解かなな  あやにかも寝も 妻服部の

注釈:わたしの夫を九州に行かせて、いとしいので、帯はとかないでいたい、ほんとうに、着たままで寝ようか

聖徳太子堂

聖徳太子堂は、台湾より招いた五人の職人が2ヶ月かけて作業し、昭和62年12月に完成。 聖徳太子像は16歳孝養像で、昭和60年の修理解体の際に寛永14年丑、仏師法橋賢養造の銘が見つかりました。

位牌堂、開山堂

位牌堂、開山堂は昭和57年6月に完成。堂内には檀家各家の位牌を安置し、天井は鎌倉彫の合天井で作られています。

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